想いのすれ違い 


 ローさんの彼女、病院長の娘さんなんですって。
 いつもなら一笑に付す噂話に心揺さぶられたのは、可愛らしい女性がローと二人、肩を寄せあってホテルから出てくる現場を目撃したからだ。お医者様だもの。ホテルを貸し切ってパーティをすることくらいよくあること。
 ――今が朝と呼ばれる時間でも?
 呼吸が浅いものに変わって視界が狭まっていく。パーティって朝方まで続くものだっけ。それはつまり、ローがパーティなんかじゃなくあの女と夜を共にしたという裏付けなのでは。犬みたいに浅い呼吸を繰り返し暗転しそうになる視界に抗おうとして膝をついた。
 私の初恋はあの時終わったのだ。






 衣擦れの音に目が覚めて視線を流すと男が服を着ている最中だった。もう朝かと時計に目をやると時刻はまだ朝の五時で、眉間に皺を寄せた。

「ロー? どうしたの、こんな朝早く……」
「急患だ。すぐに行かないといけなくなった」
「そう、大変ね。お医者様って」
「お前はまだ寝てていい。帰るなら鍵はポストに入れておけ」

 言って、私の目を手のひらで隠した。真っ暗になった視界と優しい温もりに目を閉じる。寝起きだったこともあり、すぐに眠気に襲われて抗うことなく飲みこまれた。


 次に目が覚めた時、当然ローの姿はなかった。ローが寝ていた筈のベッドは冷たい。冷たいベッドに身を横たえていると数ヶ月前に目撃した忌々しい出来事が思い起こされる。
 彼女なら冷たいベッドで一人目覚める虚しさも知らずにいられるのではないだろうか。病院長である父に縋ってまだローといたいの、と猫なで声を出せばローは呼び出されず共に朝を迎えられるのではないだろうか。ローがそれを望むかどうかは別として、私にわがままでローを縛る権利がない事実が胸に空虚なすき間を作る。
 虚しい時は瞼を閉じてローとの想い出に浸るに限る。空想の中でなら私はローにとっての唯一になれるのだから。



 ローは同じ会社でも、同じ学校だったわけでもない。偶然シャチを介して知り合った人で、一度会ってからも連絡を取ることすら無かった。たまに複数人の飲み会で一緒になるくらい。その席でも言葉を交わすことは皆無で。だから、私もほとんどローの存在を覚えていなかった。正確には声をかけられるまで思い出すこともない程度の関係だった。それなのにどういうわけか、人目も憚らず公園で一人泣いていた私に声をかけてくれたのがローだ。訝しむ私に覚えられていないと勘違いしたのか一度連絡先を交換した時に交わしたスタンプだけのトーク画面を見せられ、ただの顔見知りに声をかけるだなんて意外とお人好しなんだなと驚愕に泣いていた理由を一瞬忘れられた。ローは泣く私の手を引いて立ち上がらせ近くのカフェでフラペチーノを買って差し出してくれた。女は皆甘いものが好きだと思い込んでいるのだろうか。普段飲まない甘ったるいホイップクリームの味がしみ渡って、涙腺がまた決壊して嗚咽を漏らした。
 ローは話しやすい人だった。私がアドバイスを求めていないのを察してか知らずか、似たような愚痴を零し続ける私に時折相槌を打ちながら付き合ってくれた。そんなローに、話すつもりが無かった様な話もするする出てきて、でも気後れなんか感じさせない人だった。話を聞いてもらううちに終電も逃して、それでも尚帰りたくない、一人になりたくないと嗚咽を漏らす私をホテルに連れて行って傍にいてくれた。ホテルといっても、抱かれたとか、そんな行為は一切なく。スキンシップはせいぜい頭を撫でられたくらい。
あんまり話しやすいものだから、彼女いるのと尋ねると妹が、と一言。
 いいなあ。こんなお兄ちゃんがいたらここまで泣かずに済んだかもしれない。そう零すと「話くらいなら聞いてやるから女が夜中に一人、外で泣くな」とティッシュを差し出してくれた。ただの友達の知り合いである私にかけるにはあまりに優しすぎる言葉。きっとあの日私は恋に落ちたのだ。いっそあの頃に戻れたらと何度願ったかしれない。

「まだ、眠い……」

 ローの匂いでいっぱいのこの部屋に留まって居たいという思いを押し殺し、のろのろと身支度を整える。
 あの一夜で、終わるはずだった。話したいことがあるからといってローに連絡する気はなかった。もしも関係が続くのならセフレなんてつまらない関係ではなく恋人として傍にいたかった。ローには恋人がいる。それを分かった上でローを呼び出し抱かれる嫌な女が私。彼女になれないのならせめて……なんて。どこまで空虚な関係なんだろう。そこらのセフレの方が余計な感情が無い分もっと頻繁に会って満たされあってるんじゃ無いだろうか。
 二度とここには来ないつもりで忘れ物がないか確認するのは何度目か。意思の弱い私はローに恋人がいる事実から目を背け、さも何も知らないといった態度でまたここに来てしまうのは自明なのに。言われた通り鍵をポストに入れ、ローの家を後にした。





 家に帰ると誰の姿もなかった。玄関に女物の靴は一足もないし、暖房が効いていない部屋は家を出る前までいた人物がとっくに出ていったことを示唆している。帰るなら、と前置きすることで暗にここにいてもいいと示したつもりであったが、そんなおれの思いは1mmも伝わっていないのだろう。当然だ。なまえとおれは恋人なんて甘ったるい関係じゃない。所詮セフレ。寂しければ体を重ねる。それだけ。デートらしいことをしたのだってこんな関係になる前だからもう半年以上も前になる。
 まだなまえを抱く前から、ずっと好きだった。シャチに紹介された当初は気の強そうな女だと歯牙にもかけていなかった。飲み会で時折一緒になったが一貫してしっかり者の仕事人間といった印象で弱い面を持ち合わせているようには見えなかった。そんな女が夜の公園で人目も憚らず涙を流す姿に気丈そうな女でも泣いたりするんだと一種の庇護欲が湧いた。なんにせよ仮にも顔見知りの女を一人夜中と呼ばれる時間に放置するのも忍びなく。声をかけ、庇護欲と気まぐれから抱くでもなく朝まで付き合ってやりひたすらに支離滅裂な話に相槌をうった。ごめんね、もう一人で大丈夫と追い返そうとするなまえに乗りかかった船だと返すとほんの少し溜飲を下げた顔をしている自覚があるのかないのか。女にここまで献身的に接するのは妹をのぞいては初めてだった。そこに特別な感情なんてなかったはずだったのに。
 泣くなまえを慰めてやってからというもの、出かける度、同僚との会話でなまえの好きそうな話題が出る度に顔が過ぎって、会話ひとつしてこなかったメッセージアプリを開きメッセージを飛ばす。一度弱い部分を見せたからか、おれの誘いに嬉しそうに二つ返事を返すなまえに口角が上がる。会えば当初のツンとした態度は鳴りを潜め、かといって二度目に再会した時のように泣き顔を見せるでもなく馬鹿みたいに愛想を振りまくものだから、普段鬱屈した態度を出さず自分で溜め込む癖があるのだろうと憶測し、おれが守ってやらなきゃな、なんて柄にもない思いが芽生える始末。女に免疫がないわけでもないはずなのにあの一夜でおれの中の大半をなまえが占めるようになった。
 好きだと、自覚してしまえば早いもので想いを告げる為に色々と良さそうなデートプランを練ったりもした。途中から時折もう会わない方がとはっきりしない理由で拒まれたりもしばしばあったが、何度か誘えば一度だけ、と何度も誘いにのるのだから、嫌われたから断られたわけではないのは明白だった。そんな折だ。その日は断られた回数が過去最長に達していて会うのは随分と久しぶりだった。ようやく会えると浮かれるおれとは裏腹になまえはいつもと様子が違っていた。出かける気分じゃないだろうと練っていたデートプランはまた今度と決め家に招きいれると、入るなりずっと溜めてきていたものが一気に吹き出したのか、「もう耐えられない、彼女がいるのにどうして」と言葉にならないほどにハラハラと涙を流し続けた。その言葉であいつにどうしようもない男がいるのだと察し、殺意が湧いたのを覚えている。彼女がいるのに手を出す男なんかろくな奴じゃないに決まっている。そんな男を想って泣くのを見るのが我慢ならなかった。
 とにかく玄関じゃなんだからとリビングのソファまで引っ張っていきなんとかその場に留める。気分転換になるだろうかといくつかの酒と軽食を用意してやると何故か謝るものだから良いから食えと促した。
 普段そこまで飲まないお酒を大量に流し込み、潤んだ目と赤ら顔になった様は扇情的でおれは衝動的にあいつを抱きしめた。小さな体はおれの体に覆われてすっぽりと収まってしまった。こんなに小さかったのかと、抱き潰してしまわないよう力は加減して「余計なことは考えるな。おれの傍にいりゃいいだろ」と、ようやく想いを伝えた。そんな馬鹿な男なんざ忘れておれにすればいい。そうすりゃ泣かせることも、他の男に付け入られる隙も与えてやらない。
 1秒、2秒、3秒。数時間にも思える一瞬が過ぎ腕の中でもぞもぞと動いたなまえが「……うん」と遠慮がちに背中に腕を回す。これが両想いってやつかと早とちりした当時のおれを殴ってやりたい。なまえの気持ちを確かめもせず、勢いのままキスをして、抱いたおれを。あの時理性が働いて自分を抑え込めていればセフレなんて陳腐な関係にならずに済んだのだ。
 初めて抱いて同じベッドで朝を迎えた時は夢かと思った。酔った勢い、なし崩し的とはいえ、好きだと囁いてやればなまえも好きだと返してくれやっとこの女はおれのものになったと充足感に満たされた。
 だというのになまえは平気な面で「ベッドでの言葉なんて、その場を盛り上げるための方便でしょう?」と言い放った。
 本当に、嫌な女だ。だがそれでも手放せない。おれはとことん落ちる所まで落ちちまっているらしい。

「会いてェな」

 今朝までいた温もりがないだけで一気に部屋が寒く感じる。女々しくもちゃんと彼氏になっていればここになまえはいたのかと想像してぎり、と歯を噛み締めた。
 今更好きだと言ったところで伝わらない。セフレの囁く愛など所詮その場を盛り上げるためのリップサービスだ。
 おれに出来ることといえばせいぜい関係が途切れないよう連絡を取り続けることだけ。伝わらない好きを伝えて抱きしめて、終わり。都合のいい男に成り下がったおれを笑いたきゃ笑えよと誰かを罵った。







 ローから無事に家に着いたかとメッセージがきていた。それに着いたと礼を述べて返信する。いちセフレに対してもマメな男だ。
 数ヶ月前の、彼女がいるローとのデートを重ねる度積み上がる罪悪感に良心の呵責が耐えきれなくなり、もう会わないと面と向かって突っぱねる覚悟をした日。余計なことは考えるなとローは私を抱いた。ローは、私を抱きたかったのだろうか。何度かデートをするうちに体を許すと思っていた女が離れそうになるのに縋るほどモテないわけでは無さそうなのに。なんなら彼女がいるのだから彼女と過ごせばいい。
 無論セフレなんて長く続くものじゃないことくらい承知している。終わりがいつきてもいいように他の男に目を配り、好きになろうと努力した。今のところ実を結んだことはないのだけど。
 いっそローが彼氏だったらなんて虚しい想像をして空笑いを浮かべる。
 ローは私を抱きたかっただけ。その証拠に抱かれてからただの一度も肩を並べて陽の光の下を歩いていない。会うのはいつも暗い部屋の中。それまでデートに誘ってくれたのは全部抱いてみたいなと思っていたからにすぎないのだ。それが叶った今セフレとデートなんて面倒、絶対にしないだろう。それで勘違いされても困るのはロー自身だ。
「ベッドでの言葉なんて、その場を盛り上げるための方便でしょう?」
 いつか私がローに放った台詞。これは戒めだ。自分に言い聞かせた言葉。ローの好きは、リップサービス。その場を盛り上げるためだけの空虚なお飾りの言葉。決して勘違いなどおこしてはいけない。傷が深くなるだけだ。
 ローがどんな気持ちで私を抱くのか知らない。体の相性がいいとかそんな理由だと推測はしている。
 それでもいいと思う。可愛らしくて病院長の娘というアドバンテージを持つ彼女には敵わないのだから抱いてもらえるだけ万々歳だ。それに癖とでもいうのか、ローは私を抱いている間好きと言ってくれるし沢山キスをしてくれる。そうすると愛されていると脳が錯覚して一時的に欲求が満たされた。

「寝よ……」

 気分が晴れない。明日気分転換にショッピングでもしようかな。好きな服でも買えば少しは憑き物も落ちるかも。
そうしたら、今度こそ素敵な彼氏と幸せに……。
 そう願って眠りについたのに、私は出かけ先で後悔した。逆効果だった。
 目当ての服が安く買えて軽い足取りで休憩を兼ねてカフェに入った。通された席から見えた見覚えのある横顔。ローだ。女性と向き合って談笑している。心臓が耳の横についてるんじゃないかってくらい鼓動が大きく響く。なんで。
 ローと同じ席について談笑しているのは病院長の娘だった。親しげにローの腕に指を滑らせている。ローもそれを拒む素振りは見せていない。当然だ、彼女なのだから。
 視界が真っ暗になって、折角注文したケーキもパサパサしたパンみたいに感じられて美味しくない。ケーキを紅茶で無理に流し込んでローに気づかれる前に出た。
 帰路に着いて震える指でメッセージアプリを開く。ローとのやりとりは、必要最低限。たわいもない会話を繰り返した分だけ身を切られる思いをする羽目になるからだ。「さよなら」などと私に言う資格はないけれど、心の中で別れを告げてブロックし、連絡先を完全に削除した。本当は彼女とホテルから出てきたあの日にそうすべきだったのだ。セフレになる前ならここまで傷つかずに済んだ。胸に穴が空いたような感覚は寂しさのせいじゃないと言い聞かせ辿り着いた寝室のベッドにダイブする。
 悲しむ権利なんてない。でもとめどなく溢れる涙を拭わず流し続けるくらいは許して欲しい。





 なまえと連絡が取れない。からかわれるのは癪だが苦肉の策で妹のラミに女が好きそうなデートスポットを教えてもらい、それを口実に使おうとなまえに電話をした。だが、耳元で響くのは虚しいコール音のみ。気づいてねェのかと直近で空いている日はいつかとメッセージを送信する。
 だが、いつまで経っても返事がない。二日待って再度コール音を鳴らす。出ない。どうなってんだ。
 セフレに成り下がってしまったなまえを口説く方法をおれなりに考えた。好意を伝えて空振りで終わるならそれ以上の誠意を見せればいい。以前憧れだと言っていたアクセサリーブランドのロゴが入った小さなショッピングバッグに視線を飛ばす。中にはケース内のクッションに埋められたリング。
 シミュレーションは完璧だ。後は、なまえが応えてくれればいい。
 再度コール音を鳴らす。やはり空振りで、仕事帰りに家に寄ってみるかと携帯を睨みつけた。

 なまえのマンションに着いて時計を確認する。なまえの帰宅時間に間にあったと溜飲を下げ壁によりかかった。念の為ポケットの中にはリングの入ったケース。それを手で確かめ、出来ればなまえがおれにもう会わないと決めているなんて可能性は杞憂であってくれと祈る。杞憂であったなら世間話でもして自然にデートに誘ってその先でリングを渡す。そうでなければムードもへったくれもないが、この場で渡しなんとかこちらに気持ちを向けて貰わねばなるまい。おれはこれ程真剣に想っているのだと。他の女など考えられない、お前をセフレだと思ったことはただの一度だってないのだと伝えなければ始まらないだろう。
 ヒールが砂利を踏む音が聞こえて顔を上げる。その先には驚愕に染まった表情の待ち焦がれた女の姿。
 おれの姿を認識した途端踵を返したのに嫌な予感は的中かと舌を鳴らした。

「っ、待て」
「嫌……っ、なんで……なんでいるの」
「会いたいだけじゃ駄目か」
「そんなこと言うような関係じゃないでしょ……。ローには素敵な彼女がいるんだもの、これ以上は無理。こんなの駄目よ。ごめんなさい、分かってたのに今更よね、でも私限界なの、耐えられそうにない」

 覚えのない発言にフリーズする。彼女、だって?

「いねェよ、彼女なんか」
「嘘! だって前にカフェでっ。……それにホテル、でも」
「ちょっと待て、さっきから何を」

 どうにも根拠なしに絵空事を言っているわけではなさそうでまずはどこのカフェだと尋ねる。北通りの……とぼそぼそ言うのにああ、と合点がいった。
 
「そりゃ勘違いだ。一緒にいたのは妹だ。誓って彼女じゃない」
「妹……? だったらホテルから出てきたのは」
「いつの話かは知らねェが……妹の行きつけのバーがホテルにあってな、時々酔いつぶれてそのままホテルに泊まってる妹を迎えに行くことがある。なまえが見たのはそれだろう」
「病院長の、娘だって、お似合いの彼女ねって……」
「誰が言ったんだそんなもん、つうか、おれも病院長の息子だって知らなかったのか? んな理由でおれを避けてたのかよ」
「ローが? そんなの一言も……」

 わざわざ話すことでもねェだろと返したが、納得がいかなそうに俯くのを止めないなまえに仕方ねェとポケットから取り出したものを差し出す。
 
「なに、これ」
「良いから手ぇ出せ」

 左手を取り、ケースから出したリングを薬指に嵌めてやる。弾かれたように顔を上げるなまえの頬を撫でた。

「おれは、なまえをセフレだと思って抱いたことはねェ」
「じゃあ、なんで……?」

 まだ不安なのかまた地面に視線を落とすなまえの震える声に苦笑する。頬に置いていた手を顎に移動させて上を向かせた。しっかり視線を絡ませたまま左手の薬指、リングの上にキスを落とす。こんなキザったらしい真似すんのはなまえだからだ。

「好きだ。おれと結婚して欲しい」

 力が抜けたのか体重を支えきれなくなり膝をつくなまえを慌てて抱き抱えた。おれの腕を遠慮がちに掴む小さな手が僅かに震えているのがみてとれた。

「私、セフレじゃないの?」
「違う、本当は……初めて抱く前から好きだった。抱いた時はお前もおれを想ってくれていると……思い上がっちまった。不安にさせて悪かった」
「いつも、好きって言ってくれるのは」
「リップサービスなんかじゃねェよ。本心だ」
「本当……? 本当に、私でいいの?」
「なまえがいい」

 おれの胸に埋めていた顔をゆっくり上げたなまえの眉は情けなく八の字になり、目は潤んでいた。まだ信じられないのかとそっとキスを落とす。瞼、目尻、額、頬、唇。顔中にキスを降らせ再び薬指に唇を落とした。そして、もう一度。

「おれと、結婚してくれるか」

 ぎゅっと首に腕がまわる。耳元で愛しい吐息と共に囁かれる肯定の台詞は夢でも勘違いでもない。マンションの真ん前でしゃがみこんだまま抱き合う二人の姿は滑稽だろう。だが、それでもなまえが手に入ったのなら満足だ。ようやく、ここまできた。

「絶対幸せにする」
「ローといられれば、それだけで幸せよ」

 もう一度キスをして、次は何をしようか。ひとまず部屋に帰って二人の未来の話をしよう。こんなくだらないすれ違いは二度とごめんだ。立ち上がって向けられた久方ぶりのなまえの笑顔におれは将来を固く誓った。


prev / next
[back]
×